人間は歳をを取ると狸になるんだね。「狸おやじ」だそうだ。ワシもねこにしては結構長生きしてる。人間にすると76歳じゃ。長いことねこ人生を歩んでいるけど狸にはならないね。ずっとねこだよ!
徳川の天下餅って知ってる?
「織田がつき羽柴がこねし天下餅、座して喰らふは徳の川」
これは、江戸時代の終わりころ、嘉永2年(1849)に絵師の歌川芳虎が描いた錦絵「道外武者 御代の若餅」に書かれた狂歌なんだ。ねこのくせによく知ってるって思ってるんだろ。
面白いこと言うよね~!
俺たちには特別の情報ルートがあるんだ。まあそんなことはいいとして。この意味はね。織田信長が目指した天下統一という大事業を、羽柴秀吉が引き継ぎ完成させたあとに、努力もせずに天下をやすやすと手に入れたという徳川家康に対する揶揄ってことだよ。
民衆の不満を反映
この狂歌自体は、徳川政権末期の天保八年(1837)ころに作られたものらしい。天保年間って言えば大飢饉で、各地で百姓一揆が多発したり、もと大坂町奉行与力の大塩平八郎が、役人の不正、汚職などを告発して起こした大塩の乱があったりと。
この狂歌も幕府の力が弱まっていた当時の、民衆の不満を反映したんだと思うね。
この狂歌を使って絵を描いた芳虎って絵師は、当然幕府の怒りにふれ版木を焼き捨てられられたうえ、版元といっしょに手鎖50日というきびしい刑を受けたんだそうだ。
70歳を過ぎて天下を統一
当時の世相から見ると、そう言いたくなるのもわかるような気もするけど、家康も座して餅を食らえるほど簡単に天下を手に入れた訳ではないんですよね。
幼少から人一倍苦労をして耐え忍んで70歳を過ぎてやっと天下統一を成し遂げたのだから、相当な忍耐力を持ち合わせていたと思うよ。同じ年代の俺にはまねができないね。
家康ってすごい忍耐力!まねできないよ。
座して餅を食らったと言われた家康は、あの世で名誉を大いに傷つけられたと怒っているかもね。
苦難の幼少時代
徳川家康は、天文11年(1547)三河(愛知県東部)の弱小大名松平弘忠の跡取りとして生まれ、名を竹千代と称していた。
当時の松平家は、駿河の今川義元と尾張の織田信孝の2大勢力に挟まれた形になっていたので、父親の広忠は今川家に忠誠を示すためにやむなく、わずか6歳の息子竹千代を人質に差し出したんだ。
ところが、家臣の裏切りで竹千代は今川家ではなく織田家の人質になってしまう。さらに、竹千代8歳のころに人質交換で今度は今川家の人質となってしまった。
人質のまま11年を過ごし19歳で元康に改名。その頃、織田信長が桶狭間で今川義元を討ち倒したことで解放され、やっと人質生活に別れを告げ生まれ故郷の岡崎に戻ることができた。名も家康と改名。その後、信長と軍事同盟(清州同盟)を結ぶことになったんだけどね。
もちろん同盟といっても対等なものじゃなくて、信長に従う家臣のようなものだった。とにもかくにも、その後約20年にわたって関係が続いていくんだ。
家康は耐え忍んだ
しかし、信長からは、戦いの先鋒を命じられたり、三方ヶ原で敗北を味わったり、ついには敵国の武田氏との内通を疑われた妻の築山殿と、嫡男の信康を自らの手で死に追いやることを強いられたりした。
ウ~ン!信じられないこと強いられたんだ。
ここで逆らえば信長から敵視され、徳川家自体が危うくなってしまうと考えた家康は耐え忍んだ。天正7年(1579)家康38歳だっていうんだから。
死を覚悟した家康
天正10年(1582)武田氏に勝利した祝宴に招待を受け安土城を訪れた家康は、饗宴の後少数の供を引き連れて大阪の堺に滞在していた。その時、明智光秀の謀反を知らされたんだ。
光秀は信長の同盟者である家康も討とうするはず。家康一行はわずか30人で武器もなく丸裸同然、このときばかりは死を覚悟したという。家康の人生最大の危機だった。家康は41歳だった。
家康は伊賀出身の服部半蔵や茶屋四郎次郎など、伊賀の人々の助けを借りながら険しい山道を命からがら三河まで戻ることができた。この逃避行は「神君伊賀越え」として伝えられている。
いい家来を持ってたんだね。
その間に、秀吉は世にいう「中国の大返し」作戦で光秀を打ち取り、瞬く間に天下人の階段を駆け上がっていくことになる。
家康の我慢と努力
関白となった秀吉は、四国征伐、九州征伐を成し遂げた後、大軍を率いて小田原攻めを行い北条氏を滅ぼしてついに天下統一を成し遂げたんだ。
天下統一を果たした秀吉は関白職を甥の豊臣秀次に譲り、自身は太閤として朝廷をも操りこの世の頂点に君臨した。
その秀吉からも、無理難題を突き付けられた家康は、政略結婚で秀吉の妹の旭姫を無理やりめとらされたり、小田原攻めのあとには領地を取り上げられ関東に国替えされたりしている。
このときも家康は国替えを受け入れ、忍耐強く機会を待つことにした。天正18年(1590)家康49歳だった。
秀吉よりも長く生きる
豊臣秀吉が天下を統一したとき、家康は48歳秀吉は53歳だった。家康が天下を自分のものにするチャンスは豊臣秀吉よりも長く生きることしかないと心に定め、そのために食生活を改め、漢方の知識も自ら習得し長生きするためにあらゆる努力をしんだからすごい人だね。
そして、家康は豊臣政権で五大老の筆頭まで上り詰めた。秀吉が死に秀吉の盟友前田利家も死ぬと、周到な計画のもと進めていた天下取りのための行動を起こした。
関ケ原の合戦
様々な策で5奉行筆頭の石田三成と敵対する秀吉恩顧の武将を味方につけ、ついに1600年(慶長5年)石田三成率いる西軍との天下分け目の関ヶ原の戦いを征した。
このとき、徳川家康はすでに57歳だった。
1603年征夷大将軍となり江戸に幕府を開いたときには家康は62歳。当時としては老齢と言える歳になっていた。
1605年には将軍職を息子の秀忠に譲り、大御所として天下取りを確かなものとするため、ついに豊臣家(豊臣秀頼)を大坂の陣1614(慶長19年)で追い詰め・夏の陣1615(元和元年)に豊臣家を滅ぼした。
長い忍耐と努力の末の天下
あらゆる権謀術数を駆使した徳川家康も、天下泰平の世をつくり出すという役目を終え、家督を嫡男の秀忠に譲った。
そして翌年1616年(元和2年)74歳で人生を終えたんだから、執念と我慢の人生だったんだね。でも、それ以降明治維新までの278年間という長期安定政権が続くことになった。
おじちゃんと同い年だ!見比べると全然違うな。
長い忍耐と努力の末に勝ち取った徳川政権だけど、その生き様を見事に表している家康の遺訓があるんだ。
この遺訓からもくみ取れるのは、家康は決して楽をして天下を取ったのではないということだったんだ。
家康の遺訓を心に刻め
徳川家康は、幼少時代に織田や今川の人質として過ごし、三河を治める大名となってからも武田信玄や一向一揆に苦しめられ、数々の苦杯をなめていくことになるんだけど。
さまざまな経験から耐え忍ぶことを学んだ家康だからこそ天下を統一できただけでなく、280年近くもの江戸幕府の礎を築くことができたといえるのだろう。
家康の、その知恵が遺訓として残されている。
遺訓
人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。心に望みおこらば困窮したるときを思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え。
勝つことばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。
おのれを責めて人をせむるな。およばざるは過ぎたるより勝れり
家康の遺訓は現代でも金言
人の一生というものは、重い荷を背負って遠い道を行くようなものだ。急いではいけない。
不自由が当たり前と考えれば、不満は生じない。
心に欲が起きたときには、苦しかった時を思い出すことだ。
がまんすることが無事に長く安らかでいられる基礎で、「怒り」は敵と思いなさい。
勝つことばかり知って、負けを知らないことは危険である。
自分の行動について反省し、人の責任を攻めてはいけない。
足りないほうが、やり過ぎてしまうよりは優れている。
この先どうなるか、全く予想もできない日本、いや世界中かもしれない。家康の遺訓は現代にも
通じる金言と言えるんじゃないかな。みんなも心に刻んでほしいね。
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