オリンピックマラソン

ねこ豆知識

ずっと不思議だったんだ。マラソンの距離が中途半端なのはなんでか知っているよね。そうなんだ、イギリスの王妃のワガママが理由だったんだよ。そんな理由なの~って驚くよ。

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マラソンは、なんで42.195km

そんな理由かよ。信じらんない!

マラソンをしている若者のイラスト。

オリンピックのマラソン競技で走る距離は42.195㎞という中途半端だけど、誰が決めたのか知ってましたか。きっとみんな気になっていたと思うけど。

知ってる人は、ふん、ふん、これは古代ローマの伝令が勝利を報告するために走ったマラトンとアテネの距離だよって言うでしょ。きっと!

おおむね正解

オリンピック会場のトラックを描いたイラスト。

でもね、第1回のアテネオリンピックで走った距離は36.75kmで、だいたいマラトンとアテネの距離になるんだけど、はっきりした決まりはなくコースを設定していたらしい。

だから、第2回目のパリオリンピック(1900年)では40.02kmだし。第3回セントルイスオリンピック(1904年)では39.09km。第4回ロンドンオリンピック(1908年)では42.195km。第5回のストックホルムオリンピック(1912年)では40.02kmだった。

第6回のオリンピックは1916年にドイツのベルリンで開催される予定だったけど、第一次世界大戦が始まり開催は不可能になって「みなし開催」となってしまった。

王妃のわがまま

イギリスの王妃が立派な椅子に座って微笑んでいるイラスト。

その後の第7回アントワープ大会(1920年)では40.244kmだったんだ。特に規定がなかったため大会ごとに少しずつ距離が違っていたんだね。

その後、マラソンの距離を42.195kmと正式に確定したのが第8回パリオリンピックからだよ。

えっ!第4回も42.195kmじゃないかって。

おかしいと思ったでしょ。これには逸話があるんだ。1908年の第4回ロンドンオリンピックでは、マラソンの距離を26マイル(41.824㎞)として決まっていたんだ。

ところが、当時のイギリス国王エドワード7世の王妃アレクサンドラ・オブ・デンマークがマラソンレースをどうしても見たいから「スタートはウィンザー城の窓から見える芝生の庭で、ゴールは競技場のロイヤルボックス席で見たい」とわがままな注文をつけたため、仕方なくロイヤルボックスの前まで数百メートル延びてしまった。

コマチ
コマチ

わがままは僕と同じだ。

それで42.195㎞になったということです。

では、なぜ第4回のロンドンオリンピックでマラソンの距離が42.195㎞としていたのに、正式に確定したのが第8回パリオリンピックからなんでしょうか。

ドランドの悲劇

中途半端な距離が、マラソンとして正式に決まってしまった。ということが罹れたルールブックのイラスト。

なぜかというと、こんな逸話があったんだ。第4回のロンドンオリンピックの際に、イタリアのドランドという選手がゴール直前で倒れてしまった。ドランド選手は、何度も倒れながらも起き上がりふらふらと走り続けたんだ。

それを見かねた係員が彼を助けてなんとかゴールさせた。けれど、手を借りてのゴールは反則であるため、ドランド選手は失格となってしまった。しかし、ドランドの一生懸命な走りは多くの観客の胸を熱くさせ「ドランドの悲劇」として伝説となりました。

その後、決して諦めない不屈のランナーの走りを忘れないために、その時に走った距離42.195kmがマラソンの正式距離として採用され確定したそうだ。

レジェンド金栗四三も

話は飛ぶけど、ドランド選手が走った1912年の第5回ストックホルム大会には日本初のマラソン代表として金栗四三選手も参加していたんだ。

ところが、二人が走ったレース当日の気温が40度近くにもなり、参加者の半分が棄権するという最悪のレースコンディションだった。

コマチ
コマチ

行方不明なんてあるんだね。

金栗も日射病で倒れてしまい、意識不明のまま近くの農家で介抱されていたため、棄権の連絡をすることができず、行方不明という記録で幕を閉じてしまったという残念な結果になっていたんだ。

日本スポーツの礎

オリンピックの聖火トーチのイラスト。

金栗四三は、オリンピックで完走できなかった悔しさをバネに、日本マラソン界の向上に努め、さまざまな練習法を考案するなど日本スポーツの礎を築いていきました。

正月の恒例行事になった箱根駅伝は、金栗四三のアイデアから生まれたものだそうですよ。

金栗四三は、マラソン選手として3度の世界記録を樹立し、日本人で初めて、第5回オリンピック・ストックホルム大会に出場。 さらに、第7回アントワープ大会・第8回パリ大会と3度のオリンピック出場を果たした陸上界のレジェンドだ。

その後、55年という月日が流れ、金栗四三が76歳となった1967年(昭和42年)にストックホルム大会開催55周年記念式典に招待され、大観衆の中競技場を金栗が走ってゴールテープを切ったんだ。

タイム54年と8か月6日5時間32分20秒3

マラソンのゴールを切るマラソン走者のイラスト。

「日本の金栗、ただいまゴールイン。タイム54年と8か月6日5時間32分20秒3、これをもって第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程が終了いたしました」とアナウンスされました。

金栗はこれに答えて「長い道のりでした。この間に嫁をめとり、6人の子どもと10人の孫に恵まれました」とユーモアを交えて答え、会場中は大きな拍手と歓声で包まれたそうです。

この記録は、世界で最も遅いマラソン記録として今でも語りつがれているんだって。

日本マラソン界・スポーツ界発展のために生涯を捧げた金栗四三も、1983年11月13日、92歳でその幕を閉じた。

文字通り駆け抜けた人生だった。

そんな3つのエピソードが重なったマラソンのお話です。

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