俺がへぇ~!と思ったねこ豆知識を毎日少しずつ発信していくよ。
そんなことがあったの…。
明治維新は薩長土+肥
ほとんどの人は、明治維新を支えたのは薩摩・長州・土佐と思ってるかもしれないけど、どっこい肥前を忘れてはいませんか。肥前とはいまの佐賀県と長崎県の一部を治めていた肥前佐賀藩だ。
佐賀藩の十代藩主、鍋島直正は17歳という若さで藩主となってから破綻状況にあった藩の財政を立て直すために産業育成・交易などの政策を積極的に推し進める藩政改革を断行した人だ。
そして、直正は財政を再建するだけでなく、教育改革を行い藩校「弘道館」の充実を図り、出自に関係なく有能な人材を育成して積極的に政務の中枢へ登用するという先見の明を持っていたんだ。
その結果、欧米列強に立ち向かうために国内初の反射炉の築造や、アームストロング砲など最新式の西洋式大砲や鉄砲の自藩製造などに成功したんだ。そのことは、最先端の科学技術を導入できる人材を育てた教育改革が実ったといえるよね。
そんな佐賀藩は、幕末の混乱の中、天下の情勢を見極めることで戊辰戦争には直接参加しなかったんだ。でも、江戸城の無血開城後の上野彰義隊との戦いから五稜郭の戦いまで、幕府軍の追討戦で自藩で開発した最新式の兵器を装備した佐賀藩の大活躍で、その評価は大きく変わり薩長土に肥の存在感を高めることになった。
そして、鍋島直正が推進してきた教育改革によって育った大隈重信や江藤新平が、明治新政府の新しい国家の制度づくりに貢献した。
日本が近代化していく中で極めて大きな役割を果たした佐賀藩鍋島直正は、明治維新が始まってから間もなく世を去ったけど、幕末期の名君と評価されているよ。
加藤清正が作った食べられる城
戦国時代にさかのぼって、築城の名手として名高い加藤清正の築城の知恵を知ってるかい。朝鮮出兵での籠城戦で壁土や雑草を口に入れて飢えをしのいだという経験を生かして創り上げたのが熊本城だよ。
仮に長期の籠城戦でも困らないように熊本城内に120にも及ぶ井戸を掘ったり、籠城で最も大切な食料については、清正は城内にいかに多くの食材を備蓄するかということを考えた末たどり着いたアイデアが、城のいたるところに食料として利用できる工夫を凝らしていたんだ。
まずは、熊本城本丸内に植えた大イチョウだ。イチョウの実のギンナンは戦国時代には保存食として重宝されていたものだ。
そして多くの松の木も植えた。松が食料になるなんて驚くけど、松の厚い上皮をむくと白い薄皮が出てくる。この薄皮には脂肪分やタンパク質が含んでいるので、薄皮を臼でついて汁を出し、汁を水にさらしてアク抜きして乾かした粉を米と混ぜると松川餅という立派な餅になる。
次は城内の畳表だ。畳表はご存じイグサだけど、そのイグサの代わりに芋がらにしたんだ。イザというときに芋がらを水で戻せば立派な食料になるからだ。
そして、もう一つが壁だ。本来は藁と泥を練りこんで塗り込めるけど、熊本城の壁は藁の代わりにかんぴょうや芋がら、干したワラビ、土の代わりに珪藻土を練りこみ壁にしていたんだ。かんぴょう、芋がら、ワラビはもちろん珪藻土もイザというときに食べることができるからなんだって。
築城の名手、加藤清正が建てた名城・熊本城。籠城に備えての万全の策を凝らしていたんだね。畳から壁まで非常用食料として利用するという徹底ぶりだから驚かされるね。熊本城は、まさに食べられるお城だ。
比叡山焼き討ち…?
織田信長の残虐性が伝えられている比叡山の焼き討ちでは、根本中堂(延暦寺の総本堂)をはじめ、山上にあった堂塔を一棟も残さず焼き払い、山内にいた僧侶、婦女子ら3~4000名を殺戮したとされているけど、本当はどうも違うようだね。
なぜなら、近年行われた調査で大規模な焼き討ちや殺戮があったはずなのに、焼かれたのは根本中堂と大講堂のみで、それ以外に焦土の跡や人骨などが見あたらなかったことがわかったからなんだ。
信長の残虐性だけが伝えられてきたけど、実際は少し違うようなんだ。信長は無意味に焼き討ちをしたのではなく理由があった。
当時の比叡山延暦寺は朝廷にも影響力を及ぼすほどの強大な権力を持ち、時の権力者ですら容易に手出しができない存在だった。
その権力を笠に着て堕落し武装化した僧兵数千人が比叡山を支配していることを危惧していた信長が比叡山を何とかしなければと考えていた節がある。
「信長公記」には、比叡山を支配していた僧兵たちを指して「山本山下の僧衆、王城の鎮守たりといえども、行躰、行法、出家の作法にもかかわらず、天下の嘲弄をも恥じず、天道のおそれをも顧みず、淫乱、魚鳥を食し、金銀まいないにふけり、浅井・朝倉をひきい、ほしいままに相働く」と記している。
意味をわかりやすくすると、延暦寺の僧侶らは宗教者としての責を果たさず、戒律を守らず門前町にたむろし、女色を漁り、魚鳥を喰らい、法儀料、布施などをくすねたり、不正な賄賂を貪り、あこぎな高利貸などをおこない、ついには脅しかたりの果てに暴力を振るなど堕落しきっている。
さらには、信長の敵である浅井・朝倉軍の兵士達を比叡山にかくまうなど信長を挑発するように見える行動を起している。となる。
信長は、権力を振りかざし傍若無人に振る舞う延暦寺に対して、いきなり焼き討ちを行ったわけではなく、行いを改め挑発をやめれば寺領を返還するという朱印状を渡したり、浅井・朝倉に加担せず中立を守れば攻めることはしない。など、さまざまな講和の条件を1年以上にわたり何回もだしていた。
そのうえで「若し、此の両条違背に付きては、根本中堂、三王廿一社を初めとして、悉く焼き払はるべき趣、御諚候へき」という警告まで出していたんだ。
しかし、比叡山側はこの通告を黙殺するだけでなく、浅井・朝倉に味方する行動すらとり始めた。そこで、信長は止む負えず全軍に総攻撃を命じたということだった。
「鳴かぬから鳴くまで待ったが鳴かぬので殺してしまえホトトギス」かな。
もしも比叡山側が信長に従っていたら、延暦寺は焼き討ちを受けずに済んだかもしれないね。この戦いでの死者は『信長公記』には数千人と書かれているらしいが、宣教師ルイス・フロイスの書簡には約1500人との記述があるそうだ。
どちらにしろ、延暦寺の焼き討ちは行われ多くの僧侶・僧兵や婦女子が殺されたのだが、残虐非道に大量虐殺が行われたという説は、誇張が過ぎるのではないかと思うよ。みんなはどう思う。
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