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日本の歴史

仁徳天皇陵は?

仁徳天皇陵

日本人はおおかた歴史が好きだな。そんな中でも古墳時代が好きな歴女、歴男というマニアックなやつらがずいぶんいるそうだ。

古墳時代と評されるように日本にはその当時の古墳が数多く残っている。そんな古墳を好きだというのは、まだまだ未発見の部分も多いからロマンもそれだけあるんだろうね。


古墳は世界各地にあるが、エジプトのクフ王のピラミッドや秦の始皇帝陵とともに世界三大墳墓の一つとして日本の古墳がある。その中でも日本一大きい仁徳天皇御陵古墳は有名だね。

ただ、昔から研究者の間でも囁かれていたらしいが超巨大な前方後円墳の仁徳天皇陵が、実は仁徳天皇陵ではないという話だ。

その原因は宮内庁が調査を認めないということがあった。近年発掘をやっと認めたんだへど、保全工事に伴い周辺の発掘をしたに過ぎないので全容解明はいつのことやら。

その時に古墳から出土した土器や馬具の研究で、仁徳天皇陵が完成したのは5世紀中ごろであり、年代的には没年が一致しないと結論つける研究者もいたそうだ。近いうちに判明するだろうが、しっかりした調査をしなければ、ここが仁徳天皇陵であると確定することはできないんだ。

そんなこともあるので最近の教科書などには「仁徳天皇陵」を「大仙陵古墳」とされ、注記に「伝仁徳天皇陵」と記すに留まっている。早く詳しい調査ができるといいね。

もう一つ、日本には古墳がどれくらいあるか知ってるかな。驚くなかれ大小合わせて約16万基だっていうんだからさ。俺たちが住んでいる埼玉県(初めて言うが)だけでも数万基あったらしいよ。

でも、千数百年の間に8割以上が荒川、利根川の氾濫で消滅したり、農地として干拓されたりして今では確認できただけで4693基だって。それでもすごい数だよね。

中でも有名なのが、埼玉県稲荷山古墳から発見され国宝に指定された鉄剣(金錯銘鉄剣)だ。鉄剣に象嵌された銘文115文字が日本古代史の歴史事実を示すための基準点になった大発見だったそうだ。

日本中にあるんだから歴女、歴男のみんなも調べてロマンの旅へ、俺も、埼玉県民としては、見て回りたいけどねこの足では無理だな。

最澄と空海

最澄開山の比叡山延暦寺
空海ゆかりの京都東寺

最澄さんと空海さんは、遣唐使と一緒に中国に行って新しい仏教(密教)を持ち帰ったんだ。これが飛鳥時代に大陸から伝わった顕教(奈良仏教)に替わる密教(平安仏教)だ。最澄は天台宗(比叡山延暦寺)を、空海は真言宗(高野山金剛峯寺)を開き平安二宗と呼ばれる平安仏教の勢力を広げていったんだそうだ。

それまでの奈良仏教というのは、天皇を中心として国家政策の一環である国家仏教として朝廷の許可を得て仏教研究を進める僧や、それを学ぶ学僧のためのものだったんだ。

いわば国立大学のような存在だった。この時代には全国に国分寺や国分尼寺の創設・東大寺大仏の建立・興福寺・薬師寺・大安寺・唐招提寺など、多くの寺が建てられ日本の文化・芸術が大きく開花し栄華を極めていた。

そんな中で、二人は国家仏教的な奈良仏教から距離を置き、唐から持ち帰った密教を基に学問的な色彩を弱めたんだ。そして、貴族階層に向けて加持祈祷による現世利益を与えるという密教修法を確立。

最澄は比叡山に、空海は高野山に寺院を建立し、天台宗と真言宗を二大勢力として仏教の中心となっていったんだ。

高野山では弘法大師・空海は生身のままに奥の院に居て人々を救い続けていると信じられているんだ。

比叡山からは浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、日蓮宗の日蓮、曹洞宗の道元、臨済宗の栄西、徳川家康の知恵袋として有名な天海など多くの高僧が排出されている。

人は城人は石垣人は堀…。

武田信玄像

戦国時代、数々の名将が登場したのは誰でもい知っているよね。中でも組織力と民主的な軍団として大きな勢力を築いたのは、甲斐の国の将、武田信玄だろう。これはその武田信玄の格言の一部だ。

正確には、「人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵なり」だ。

りっぱな城があっても人の力がないと役に立たない。 国を支える一番の力は人の力であり,信頼できる人の集まりは 強固な城に匹敵する。

情けは人の心をつなぐことが出来る。しかし仇が多ければ結局は国を滅ぼす事になることになってしまう。信玄の考え方や生き方を表したものなんだ。今の政治家にも見習ってほしいものだな。

奈良の大仏

奈良の大仏

奈良の大仏は、東大寺の本尊で、正式には、廬舎那仏(るしゃなぶつ)というんだ。743年に聖武天皇が詔(みことのり)を発して、9年後の752年に開眼供養会(かいげんくようえ)が開かれたんだ。

大仏製作に携わった人夫が260万人だったということだから、当時の日本の人口(700万人)の40%が駆り出されたということになるね。

その後、度重なる自然災害や戦火で大仏殿が焼失し、その都度再建されたけど1567年には松永久秀の軍勢による焼き討ちで大仏の頭も落ちる損傷を受けたんだ。

その後、100年以上も雨ざらし状態が続いて、江戸時代(1692年)にやっと大仏の修理が終わり開眼供養が行われた。大仏殿の再建に至っては、それから16年後の1709年までかかったというのだから。

このような苦難をくぐり抜けてきたんだね。再建した大仏は、創建当時よりお顔が一回り大きくなっているんだけど大仏殿は30mほど低くなっているんだ。損壊、再建を繰り返したため、創建当時のままの部分は、大仏の左大腿部褶襞(しゅうへき)(衣服のしわ)と台座の蓮弁部のみだそうだ。

利休の四規七則

茶道具

 この辺でお茶でも一服。せっかく歴史をひも解いているので、戦国時代の茶道の創始者、千利休のお話をひとつ。
茶の湯を習わなくとも千利休のことは誰でも知っているよね。戦国時代から安土桃山時代にかけて織田信長、豊臣秀吉に仕えた茶人だね。

利休は、秀吉の怒りを買い切腹を命じられ命を落としてしまうが、「わび茶」と呼ばれる茶の湯の形式を完成させた元祖だと思う。

「わび茶」の「わび」は、安土桃山文化の華美の対極にある「簡素簡略の境地」つまり、もてなしとは、豪華絢爛な装飾や盛りだくさんな料理などではなく、しつらえは余計なものをそぎ落とし、こころづくしで満たせばよいという「わび」の考え方を茶道に体現したものだと思う。

利休はわびの心を「利休四規七則」という形で残しているんだ。茶道の精神を表す「四規」と、客人をもてなすときの大切な「七則」を教えている言葉だ。

千利休

「四規」とは、和敬清寂のことで、
<和>とは、 心あたたかく仲良く和やかにいること
<敬>とは、お互いを大切に思い、尊び敬いあうこと
<清>とは、目に見える清らかさだけでなく、心も清らかに美しくいること
<寂>とは、何事にも乱されない、どんな時にも動じない心
この4文字に全てのお茶の心が込められていると言われているんだ。

「七則」とは、客人をもてなすときの大切な心構えを表す言葉で、
〈一〉茶は服の良きように点て
お茶の味と気遣いの心を客人に味わっていただくおもてなしの心でお茶を点てなさいと説いている。
〈二〉炭は湯の沸くように置き
湯はただ沸かせばいいのではない加減が大切だ。つまり物事の本質を見極めろと教えているんだ。
〈三〉夏は涼しく冬暖かに
茶道は季節感や自然の恵みを大事にして、季節感の調和が茶道の大切な心得だと言っている。
〈四〉花は野にあるように
茶室の花は、ただ活けるのではなく花の特徴や魅力を生かし、花の命を尊ぶことだと教えている。
〈五〉刻限は早めに
時間にゆとりを持って対処することは自分だけでなく、相手を大切にすることに繋がると説いている。
〈六〉降らずとも傘の用意を
どんな時でも不足の事態に備える準備をするという茶人の心がけが大切だという教えだ。
〈七〉相客に心せよ
茶席では一期一会の精神で互いに尊重し敬うことで調和が生まれると説いている。


利休が追及した茶道の精神「四規」と、おもてなしの「七則」は日本人の美意識の中心であり、禅の悟りの概念に近いのかもしれないね。茶道の美意識は現代の生活にも生かしたいものだね。

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